今回は、問い学ぶという「問学」を実践することで、何を得ることが出来るのかについての私の考えを数回に分けて説明します。これから説明することは、私の実践から生まれたものではありません。過去の偉人が述べたことやその述べたことに使われた言葉の意味を探る過程で辿り着いた知見です。それ故、それぞれの方が問学によって、達成する目標を立てることの方が大切であり、あくまでも参考意見として捉えて頂ければ幸いです。
今年の3月末に発行されました『大学英語教育学会(JACET)関西紀要 No.19 』に掲載られました拙論「反転授業:アクティブ・ラーニング実現は「問い学ぶ」教育に道(よ)る」で書いたことを説明いたします。その拙論で、「問学」によって導かれるものは、「知識とスキルの習得であり、その先は智恵の獲得である」と述べました。これについて、数回に分けて説明いたします。
福沢諭吉著『学問のすすめ』の中の有名な冒頭の言葉である「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと言えり。」の数行あとに、「実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。」と書かれています。この文に続いて福澤は「されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来(いでく)るものなり。」と述べ、学ぶことの重要性を指摘しています。
『実語教』とは何かを調べると、デジタル大辞泉によれば、「平安時代の教訓書。1巻。著者・成立年とも未詳であるが、俗に、空海の著といわれている。経書の中の格言を抄録し、たやすく朗読できるようにしてあり、江戸時代には寺子屋などで児童用教科書として使用された。」と解説されていました。購入した、齋藤孝氏による「子どもと声に出して読みたい実語教ー日本人千年の教科書」という本で、実語教の言葉を調べました。そこには、「玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦とす。人学ばざれば智無し。智無きを愚人とす。」とあり、確かに福澤は後半の部分を引用していたことが判明しました。
余談ですが、英文『武士道』を著し、国際人として大活躍をした新渡戸稲造の『随想録』を読んでいると、新渡戸も「実語教」から引用している箇所を見つけました。それは「教育の目的」という題の文中に、「山高きが故に貴からず、木あるを以て貴とし、位あるがために貴からず、人格あるが故に貴しとす。地位と人格との差は大なるものである。」と書かれていました。『実語教』に「山高きが故に貴からず。樹有るを持って貴しとす。」「人肥えたるが故に貴からず。智有るを以て貴しとす。」とあり、後者は直接の引用ではないものの、新渡戸が『実語教』の影響を受けていることがうかがえます。洋学を目指した福澤も新渡戸も、一千年にも渡って教え継がれてきた『実語教』に触れていることを知って、その本の影響力の大きさを改めて認識しました。
その『実語教』に中に、「学問」が出てきます。最後を締めくくる言葉が、「かるが故に末代の学者 先ずこの書を案ずべし。これ学問の始め 身終るまで忘失することなかれ。」とあります。福澤が使用した「学問」も実語教での「学問」もそれらは、大学の学問という高度な研究に従事する、ごく限られた人たちのためのものではなく、もっと裾根が広く、子どもから大人までの全ての人々に対する言葉であったことが分かります。
次回は、『実語教』にある福澤が引用した、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。」の智について述べます。長年に渡って理解されてきた「智」とは何かについて論考します。それを通して、学ぶ意味や意義が明らかにすることが出来ると考えています。