『実語教』の「人学ばなければ智なし、智なきものは愚人なり。」から「学ぶことより智恵を得ることができる。智恵とは、物事の本質を見極め、正しく判断する能力のこと。」を日英の両言語の定義を調べることによって導き出しました。
それでは、その智恵は具体的にどのような場面で発揮するのでしょうか?小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が書いた物語にその智恵の使われ方を知ることができます。恥ずかしながら、私は最近までこの話を知りませんでしたが、勤務校の今年の入学式で学校長が式辞で触れていました。その時の式辞の箇所を以下に引用します;
『今日は、これからの3年間、あるいは6年間で、皆さんに必ず身につけてほしい力についてのお話をします。皆さんは小泉八雲という小説家を知っていますか。明治時代の随筆家であり、英文学者でもありました。旧名はラフカディオ・ハーン。日本人女性との結婚後、イギリス国籍から日本国籍になりました。今日はそんな小泉八雲の短編集「骨董」に収録されている「常識」という作品を紹介します。元は仏教説話のようです。
ある寺の住職が、寺に来た山の猟師に「真夜中に寺の庭に、普賢菩薩という仏様が姿を現すから、是非、拝んでいきなさい」と勧める。疑いつつも寺に泊まった猟師は、真夜中に光とともに白い象に乗った普賢菩薩が現れるのと見た。住職も寺の小僧もひれ伏して、一心に経文を唱えている。しかし、猟師は二人の背後に立つと、菩薩をめがけて弓をしぼり矢を放った。途端に激しい雷鳴が起こり、菩薩の姿が消えた。「なんということをしてくれたのだ」と半狂乱になって住職は猟師を罵るが、猟師はこう言った。「和尚様、あなたは座禅や読経の功徳を積めば、仏様を見ることができるとおっしゃった。しかし、それならば修行の足りない私や小僧さんには、仏様は見えるはずはない。その上、私は山で獣や鳥を狩る。つまり殺生を仕事とする。殺生を嫌う仏様が、私に見えるはずがない。あれは仏様ではなく、和尚、あなたの命を狙った化け物に違いない。」
夜明けになって住職と猟師が調べると、普賢菩薩が見えていた辺りには血の跡があり、その後をたどると大きな古狸が猟師の矢を受けて倒れていた。というのが作品のあらすじです。
住職と猟師、その行動の差が生まれた理由は何か。それは、二人の持つ学力の違いだと考えられます。情報とは、人から伝えられた事柄をそのまま記憶し、蓄えたもの。知識とは、人が情報を選択し、その意味を理解して蓄積したもの。そして知恵とは、知識を整理し、思考・判断・行動に転化できる力。
住職は騙され、猟師は見抜いた。住職は多くの情報を持ち、そしてそれを知識として蓄えていた。しかし、住職の知識は、知恵として働いていたのでしょうか。多くの情報や多くの知識を持ちつつ、それらをため込むだけで思考に結びつけようとしない、それは記憶再生型学力。
一方、猟師は、経典や仏教についての高度な情報を得ることなく、日々の暮らしで得た情報を知識として蓄え、そしてそれらをもとに自分で考え、行動して暮らしを支えた。つまり、知識を知恵として活用できる力、それが思考的学力。この思考的学力こそが、今、社会で求められている生きる力です。特筆すべきは、この作品は100年以上前、1902年に書かれました。 (以下省略)』
私はこの話を聴いて、インターネットで英文の原文に当たりました。何故かと言うと、「常識」を英語で何と言うのかを確認したかったからです。
英語の題は "Common Sense" となっていました。日本語でも常識のことを「コモンセンス」言いますが、「常識」という言葉を使用する場面では、必ずしも "Common Sense" を使うとは限りません。例えば、「大阪はたこ焼きで有名です。」と言って、相手から知らないと返答されて「それは、常識だよ。」言い返す場合は、 "Common Knowledge" (共通の知識)で表現する方が好ましいとされています。何故なら、その会話には、判断を下す状況ではないからです。
"Common Sense" は、前回のブログでの "wisdom" の定義の一つに上げられていたように( common sense: good judgement) 、「判断」を示す言葉です。Sense の定義にも「判断する」があります(6 a: judgement . American Heritage Dictionary of the English Language Fifth Edition より)。
すなわち、小泉八雲の「常識」とは「智恵」言い換えであり、それは「本質を見極め、正しく判断する」という意味で使われていると解釈できるのではないでしょうか?知識を学ぶだけでは、必ずしも智恵にはならないという教訓でもあります。逆に言うと、智恵の獲得に繋がる学びを行う必要があるということです。
「智恵」を得るという高度なレベルの学びについて述べましたが、次回は、それ以外の学びによる「知識」と「スキル」の獲得について述べることにします。