繰り返しになりますが、左図が示す通り、「学ぶこと」は知識やスキルや智恵を「得る」、つまり、自分に引き寄せて自分のものにする行為です。この一方通行的な流れを潤滑させるのが「問うこと」です。
中国、戦国時代の儒学者であった孟子(紀元前372頃~前289頃)は、「求めれば得ることができる。あきらめれば失う。」と述べたそうです。孟子は教育現場で述べたかどうかは知らないですが、「求める」と「得る」の両者の行為が、「問う」と「学ぶ」に含まれていることが分かります。このように、「問学」は「求め、得る」行為であると言い換えることができます。その対象は「知識」「スキル」「智恵」です。数回に渡って、「スキル」についての考えを述べることにしますが、今回は「スキル」が求められる背景について書きます。
2020年は戦後教育の節目の年になると言われています。その一つには、10年に1度の小中高の学習指導要領改訂に合わせて、共通1次試験(現在はセンター試験)以来40年間続いてきた大学入試制度が大きく変わることがあります。センター試験を廃止し、それに代わる共通テストや英検などの外部試験を導入する一方、より思考力や表現力などに重きを置く試験の導入が予定されています。
それの背景は、グローバル化やIT(情報技術)の進展による社会情勢の変化があります。AI(人工知能)の飛躍的な向上に伴い、人間の仕事がなお一層、AIやロボットに取って代わることが予想されています。さらに、日本国内では、急速に進む少子高齢化が大きな問題となっています。少子化によって生産性が減少し経済規模も縮小する一方、高齢化により社会保障制度などの維持が極めて難しくなります。
共通1次試験が導入された時期は、日本が世界に追いつき、"Japan as No.1" (世界No.1 としての日本)という本がハーバード大学の学者により出版され、日本の教育や日本的経営など賞賛されいた頃でした。それから10年くらいの「バブル経済崩壊」まで世界での日本の存在感(Presence)は増す一方でした。日本を賞賛する動きがある一方で、「日本たたき」"Japan Bashing" という、日本の経済的な発展に対してアメリカを中心とした、日本非難の現象も現れました。しかし、「バブル崩壊」後、実感できる経済復活もなく、1990年代後半には「失われた10年」、その10年後は「失われた20年」、そして今や「失われた30年」になろうとしています。その間、経済力の台頭は、中国になり、「日本たたき」"Japan Bashing" から「日本を通過」"Japan Passing" (通過して中国へ)、そして「日本ナッシング」"Japan Nothing" と言われるくらい、日本の存在感が低下しました。
日本の停滞には様々な理由がありますが、「グローバル化」の対応の遅れや「高度情報化社会」、延いては、「知識基盤社会」への移行がスムーズになされていないことが挙げられます。前者に関しては、「グローバル・スタンダード」(世界標準)という言葉が20年前くらいによく聞かれましたが、実際には2017年現在で日本はどの分野で世界標準に達しているのでしょうか?大学の世界ラッキングや日本企業が大変苦戦を強いられているのを見聞きすると、対応の遅れを感じざるを得ません。
後者に関しては、「教育」が密接に関係しています。「知識」というと、「既存の知識を吸収する(した)もの」という印象付けられることが多いですが、その意味だけではなく、「新たに生み出す(出された)知識」であるという捉え方が必要です。例えば、iPS細胞の発見とその実用化は、それに値します。科学的な知の創造を含む、新たな知識に基づき、変化し発展する社会のことを「知識基盤社会」であると考えています。
そのように捉えると、AI(人工知能)やIoT(物のインターネット化)などは社会を大きく変えるものであり、21世紀の社会は、まさしく「知識基盤社会」です。このような社会において、教育が果たす役割も変わる必要があります。例えば、新たな価値創造が出来る人材を輩出することが喫緊の課題になっているため、生徒たちが単に既存の知識を得ることよりむしろ、未知の知識を得る(発見・創造する)教育を行うことがより求められています。2020年に向けての教育改革はこのような背景があることを理解することが極めて重要です。