学達問学 ― 学びて達し、問うて学ぶ ―

 「学達問学」(学びて達し、問うて学ぶ)は、文字通り、「学達」と「問学」を合わせたものです。最初は、「問学学達」(問うて学び、学びて達す)としていたのですが、本研究部の居細工アバイザーと話していたところ、アドバイザーより表題の「学達問学」の方が良いとのアドバイスを頂きました。

 

 「学達問学」とする理由は、まず初めに「学び」があり、その学びは「問い」により、さらに高め(深め)られた「学び」となるという考えからです。言うまでもないことですが、「学達」の学びと「問学」の学びは同じものではありません。

 

 「学ぶ」には「まねる」の意味があります。誰もが何かを身につけるためには、それを受け入れることを必要であり、その受け入れは「まねる」ことにあります。言語習得の例を取っていも、母語であれ外国語であれ、最初は対象言語の「まね」から始まります。対象言語をインプットし、それを繰り返し模倣することで、身につきます。身につくことで、上達します。学び上達した状態、すなわち、「学達」を基に、さらにその学びについての「問い」を持つことで、より高い(深い)学びが起こります。先ほどの言語習得であれば、言語そのものについての問いであったり、言語習得についての問いであったりします。前者は、言語についての洞察につながり、後者は、振り返り(reflection)やメタ認知(metacognition)を通してのより高度な上達となるでしょう。

 

 「学達問学」は、「学び」⇒「上達(発達・成長)」⇒「問い」⇒「より高度(深い)学び」というように「学び」が進化する過程を示します。その学びは、上達したり、問うて終わりとするのではなく、次の「学達問学」につながることで「学び」の連鎖が生まれ、「上達(発達・成長)」の過程が続くものです。「学達問学」する人には「学び」に終わりはなく、人が生きる限り、学びは続き、人の成長にも終わりはありません。昨今、「人生100年時代」という言葉をよく聞くようになっていますが、そのような長い人生を送るに当たり、「学達問学」は人生を最後まで豊かにしてくれるものであると考えます。