教師の役割-Anti-intellectualism in American life から(その2)-

 前回のブログで紹介しました洋書 Anti-intellectualism in American life には「学校と教師」(The School and the Teacher)という章(第12章)があり、教師の役割に関して非常に参考なる箇所がありました。今回はその箇所を紹介し、教師の役割について考えてみます。

 

 'The figure of the schoolteacher may well be taken as a central symbol in any modern society.  The teacher is, or at least can be, the first more or less full-time, professional representative of the title of the mind who enters into the experience of most chilren; and the feeling the child entertains toward the teacher, his awareness of the community' regard for the teacher, are focal points in the formation of his early, rudimentary notions about learning.' (pp.309-310)

「おそらく、学校教師の姿はいかなる現代社会においても中心的な象徴として考えられるであろう。教師は、ほとんどの子供が最初に体験する、専門職としての知性を代表する人物である、いや、少なくともそうなり得る人物である。そして、初期の未発達の段階では、子供が抱く教師への感情、地域社会が教師に抱く敬意の意識が、子どもが学びについての考えを形成するのに焦点となる。(拙訳)

  `At any level, however, from the primary grades to the university, the teacher is not merely an instructor but a potential personal model for his (or her) pupils and a living clue to the attitudes that prevail in the adult world.  From teachers children derive much of the sense of the way in which the mind is cultivated; from observing how their teachers are esteemed and rewarded they quickly sense how society looks upon the teacher's role.' (p.310)

「しかし、小学校から大学までのいかなる段階でも、教師は指導者であるばかりではなく、児童・生徒・学生にとって、潜在的には人としての模範ともなり、大人の世界で優勢となる態度の生きた手がかりでもある。教師から、子どもは、知性を養う方法をくみ取り、教師がいかに尊敬され報いられているかを観察することで、子どもは、社会が教師の役割をどのように見ているかを、すばやく感じ取る。」(拙訳)

 `In countries where the intellectual functions of education are highly valued, like France, Germany, and the Scandinavian countries, the teacher, especially the secondary-school teacher, is likely to be an importanat local figure representing a personal and vocational ideal worthy of emulation.  There it seems worth becoming a teacher because what the teacher does is worth doing and is handsomely recognized.  The intellectually alert and cultivated teacher may have a particular importance for intelligent chidlren whose home environment is not highly cultivated; such children have no alternative source of mental stimulation.` (p.310)

「教育の知性的機能が高く評価されている国々、例えば、フランス、ドイツ、スカンジナビア半島諸国では、教師というのは、特に中・高校の教師は、それぞれの地域において、個人的にも職業的にも模倣する価値がある理想像を体現している人物であろう。そこでは、教師になる価値があるとされるようである。その理由は、教師の行動には価値があり、手厚く認められているからである。知性において鋭敏で磨きがかかった教師というのは、家庭環境がそれほど洗練されてはいないが、知能が高い子供にとっては、特に重要であるかもれない。そのような子供は、教師に代わる知的な刺激となるものを持たないからである。」(拙訳)

 

 ①から③の三か所を引用しましたが、50年前に書かれた本にもかかわらず、内容は全く色褪せることはありません。むしろ、AI(人工知能)と共存する上で教師の役割を的確に述べたものであると感じられます。

 

 国家や地域社会が、教師をただ単に知識や情報の伝達者と見なすのではなく、知的世界へ誘う者として、生徒にとってのモデル(模範)と見なし、そのような模範を示すことができる人物が、AI/IoTが牽引するソサエティ5.0で貢献できる教師となるでしょうこのような教師とは、主体的な教育者(Proactive educator)であり、かつ主体的な学習者(Proactive learner)です。自らが進んで学ぶ姿勢を持たないものが、生徒の範となすことはできません。教師も絶えず、学び成長する(学達する)ものでなくてはならないと思います。「学達問学」(学んで達し、問うて学ぶ)精神(spirit)を実行し体現することも、これからの教師の役割において大切であると考えます。

 

 最後に以前紹介しました『河合隼雄自伝』から、教師の「学び続け成長する姿勢」に関連する箇所を紹介します。以下は、河合氏が大学卒業後に高校の数学教師になろうと考えていた時のことです。

 

「教えるのがものすごく好きやし、教育が好きやから高校の先生にならかと思った。しかしいちばん心配だったのは、高校の教師を見ていると堕落していく人が多いでしょう。そして、これもぼくの特徴だけど、なにかきわめようと思うたらなんでも先の先まで考えるんですね。そうでないとちょっとやる気がしない。そうすると。いまは教えるのが大好きやし、学者なんかになるよりは高校の教師になるほうがよっぽどおもしろいと思っているんやけども、先を考えたらなんとなくみんな堕落していくといか、あんまり情熱もないようだし、ああいうふうになるんやったら困るなと思っていたんです。」(p.110)

 

 そのように思っていた河合氏は出身高校の恩師(国語教師)を訪れて、次のことを聞きます。

 

「先生が言われたことは、「中学校とか高校の教師は同じことを教えているので自分たちが進歩しなくなる。なんにも進歩しない人間というのは魅力がない。自分は国文学についていつも研究している。それは学会から見れば大したことないかも知らんけれども、自分なりにずっと研究は続けてきている。自分がどこかで進歩しているということを、中学生、高校生にはなにも教えないのだけれど、みんな感じているんじゃないか。だから、べつに数学でなくてもいいから、自分が進歩し続けれるものをしっかり持っている限りは高校の教師になってもいいと自分は思う」ということを言われた。」(P.111)

 

 私も堕落しないように、これからも学び続けて行こうと思います。