何事においても一流になるにはそれまでに練習・訓練などにかける時間が必要であり、その時間は、1万時間が目安と言われています。この1万時間の根拠は、Anders Ericsson 氏の研究よるものとされています。このEricsson 氏の研究成果を米国のベストセラー作家の Malcolm Gladwell 氏による本 Outliers で「1万時間の法則」(the ten-thousand-hour rule)として著したことにより広く認知されました。Outliers は、勝間和代さんが翻訳し、『天才! 成功する人々の法則』というタイトルで出版され、日本でも「1万時間の法則」が知られるようになりました。教育改革実践家である藤原和博氏を始めとする教育関係者により「1万時間の法則」は教育界でも認知されるようになっています。
しかし、Ericsson氏は自身による著書 Peak で、「1万時間の法則」に関しての4点の間違いを指摘し、その時間だけにこだわることに対して注意を喚起しています。第1に、1万時間は魔法の時間ではない。1万時間をかければ良いというのではなく、その倍以上の時間をかけなければならいこともある。第2に、一流になるためにかける時間は分野によって異なる。第3に、ただ時間をかけて練習(practice)すれば良いのではなく、deliberate practice (よく考えられた練習)を行う必要がある。第4に、ほとんど誰もが1万時間をかければ、一流になるための約束ごととして多くの人が誤解している。以上の4点を述べ、一流になるには、正確に1万時間が必要であると捉えるのではなく、非常に膨大な時間を要して長年に渡る途方もない努力を、一流の先人たちは行ってきたということを指摘した点では、Gladwell氏の主張は正しい、とEricsson氏は述べています。(pp.110-112)
日本においても、Ericsson氏が指摘した4点を理解されないまま「1万時間の法則」が広まっているように思われます。うまく伝わらない主な理由に、第3の指摘の deliberate practice の定訳がないためであると、私は考えています。膨大な時間がかかるを示すために、1万時間という暫定的な時間を使用することは、何も間違ってはいないでしょう。しかし、1万時間という時間をかけても、何の目覚ましい進歩をとげることが出来ない場合があります。それは、3点目の指摘通り、練習(practice)の仕方にあるのです。その成果を出すための練習を Ericsson氏は deliberate practice と呼びました。
「1万時間の法則」を語る上で知っておかなければいけないのが deliberate practice です。しかし、残念ながら、日本語においては定番となる訳はありません。私は暫定的に「よく考えられた練習」と訳しましたが、あまり印象に残ることばではないでしょう。英語使用圏では、本家のEricsson氏自らが使っている言葉なので、deliberate practice 以外では同様の内容を表す表現は見かけません。それに対して、日本語では定訳がりません。Ericsson氏による Peak の翻訳書『超一流になるのは才能か努力か?』では、deliberate practice は「限界的練習」(p.141 など)と訳されています。この訳以外には、前回のブログで紹介しました本『英語が楽天を変えた』で、三木谷会長が楽天の英語化において採用した手法との関係で deliberate practice が紹介されており、その訳は「意図的で計画性のある練習」(p.42)とされています。どちらの訳が正しいと言うではなく、私が指摘したことは「1万時間の法則」を語る上でキーワードとなる言葉の訳が色々であるために、その言葉や概念が伝わり難くなっていることです。
deliberate practice の特徴には、「効果的な練習方法が確立している」「現在の能力よりも少し上の練習をする」「明確で具体的な目標がある」「集中した練習」「フィードバックとそれによる修正」(p.99)などがあります。練習する際には、このような部分が欠けると、いくら時間をかけても、成果は期待できません。時間をかけて進歩し、成果をあげるためにも deliberate practice の定訳が必要です。
Al(人工知能)翻訳の性能がこれからも飛躍的に高まることは間違いありません。しかし、現在を含め将来に渡っても、deliberate practice のような重要な概念を持つ言葉に対する、定訳をどのように作っていくかが、課題になります。これは、150年前の明治維新で日本が開国をした課題と同じ問題です。定訳が出るのを待つよりも、英語で直接理解する方が当然早いです。この意味で、英語を学習する意義は、今後も残ると考えられます。
(参考文献)
Anders Ericsson & Robert Pool (2016). PEAK: Secrets from the new science of expertise BODLEY HEAD
アンダース・エリクソン&ロバート・プール(著)土方奈美(訳)(2016)『超一流になるのは才能か努力か?』 文芸春秋
セダール・二ーリー著 栗木さつき訳(2018)『英語が楽天を変えた』 河出書房新社