「問学」という言葉を思いついてからちょうど三年になります。自分で考え出したというものの、すでに何百年も前から「問学」という言葉がすでに存在していました。日本国語大辞典や新漢語林などの漢和辞典に「問学」の定義が書かれています。しかしながら、その社会的認識は非常に低いものです。
最近、How Emotions Are Made という本を読みました。その本は、よく立ち寄る書店の洋書コーナーで置かれていたので以前から気にはなっていたのですが、なかなか読む気持ちにはなれない状態でした。その翻訳『情動はこうしてつくられる』が先月出版され、書評が日本経済新聞(12月7日付け)で掲載されてあり、読むとその本に大変興味がわきました。書評で私の関心を引いたのは、「情動に合わせて言葉がつくられるだけでなく、逆に言葉が新たに情動を生みだす」という箇所です。
原書を読むと、情動は社会的に構築されるという主張されています。社会的(socially)というのは、分かりにくい言葉かもしれませんが、人との関わりという意味で捉えると理解しやすくなります。例えば、原書では social reality(社会的現実)がキーワードとして登場しますが、この言葉を理解するには、人々との関わり、すなわち、人と人との間で存在する現実という意味で理解します。「人と人の間」というのは、もっと具体的には「それぞれの人の頭に思い浮かぶ共通の」という意味です。世界的大ベストセラーの Sapiens (邦訳『サピエンス全史』)にある shared imagination(共有された想像)と同じことを指しているように思えます。
社会的現実を可能するのが、概念(concept)であり、それを言い表すのが言葉です。人が言葉を通して概念を理解する、その理解したものが人々の間で共有され現実となるという考えです。例えば、虹は7色ですが、国や文化によっては6色とされることもあります。この例のように、概念や言葉により認識する世界・現実が存在することがわかります。情動も体感する感情や気分を言葉で表現し、他の人々と理解し合うことで構築されるものであるとしています。このことから、同書は、情動は世界全域で普遍的なものとする定説に対し、異なる環境(国・社会・文化など)で多種多様なものであると主張しています。
言葉が情動の構築に大きく関与するのであれば、おそらく思考にも同様のことが言えるでしょう。今回のブログのタイトルにある「学習者から問学者へー問い学ぶ者であることー」は、「問学者」という言葉を理解し使用することで、自分自身が問い学ぶ者であるという実感を持ち、延いては、アイデンティティを持つことにつながると考えるからです。実感やアイデンティティを持てば、自ずと態度や行動に現れるでしょう。
そのようになれば、「今までよりも多く問い、より多く学び」、そこから、「より良き問いが立てられ、より良き学びになり、それがより良く生きる」ことになっていくでしょう。このホームページの標語のように Ask more, Learn more. Ask better, Learn better, Live better. はいかに学習者(学び習う者)から問学者(問い学ぶ者)への変容するかに懸かっていると思います。言い換えれば、「問学者」という言葉を社会的現実にするかに懸かっているとも言えます。来年はこれに向けて邁進して参ります。
(参考文献)
Lisa Feldman Barret(2017). How Emotions Are Made: The Scret Life of the Brain PAN BOOKS